日報と週報

20240120

記(1)

期末近い話

思い出したのだが期末のレポートがめちゃくちゃ溜まり始めている。

ちょうど新規の労働が開始しそうなときに期末シーズンだとうざいので消化する。

 

日報を作るのは前日の夜がよい話

当然、「日報を作る」ということも、ストレスである。しかし「日報」を書いている間は微小な快感が流れているのを感じる。したがって、日報のページを作ること自体は事前に行ったほうがいいという格好になる。明日の予定を決めてから寝たほうが明日のストレスを軽減できる。ここで陥りやすい罠は、明日の予定を実現不可能な量設定してしまうことである認知的不協和からなるストレスの閾値を超えてからすべてを投げ出すという点である。したがって、フォーカスすべき1つの課題程度に事前の日報は抑えておいた方がいい。

 

ルーチンが邪魔されたときにどうする話

当たり前だが生活をルーチン化するのは難しい。突発的な用事が入ってくることもあるし、雨が降ったら外に出るストレスが爆増なんてこともある。ルーチン化するとよくないのは、1つ崩れると一気に崩れるというところだ。なぜならそこに思考が発生するからだ。思考はストレスだ。次に何をすべきかが自由になっている状況はストレスだ。また「自分がやろうと思っていたことをやれていない」という認知的不協和的状況にもストレスが発生する。だからストレスのない、思考が必要ない即時的に快楽を得られるコンテンツへと移行する。低い方に水が流れる。まあ何百回も経験がある。

 

この、「ルーチンが崩れたときに増大するストレスをどうするか」「突発的にルーチン内のストレスが増大したときにどうするか」というのは課題。

一つ考えられるのは、全ての選択肢を提示することだ。いわゆるYes Noチャートにする。

こうするとルーチンが崩れたときにもパターンが用意されているため考える必要がない。

 

さてまずこれで行こうと思うが、問題が一つあり、それは「Yes Noチャートを見るのに意思が必要である」という点である。取り敢えず部屋とベッド周りに大量に貼り付けるパワープレイでなんとかしてみることにする。スタイリッシュな部屋?そんな理想とっくに捨てたさ。

 

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つい最後に残っているアカウントで10分程度Twitterを見たんだが、やはりクソだ。語気を荒らげたくないが、Twitterはクソだ。考える必要がない、くだらない、人生で関わることもない他人の話題が延々と流れてくる。流れてきた時点で私はそれについて思考し、意見を持ち、明文化しないまでも論評を迫られる。その後もっと他のツイートを見るか、それとも離脱するか、思ったことを話すのか、どんどん意思がハックされていく。思考と意思のリソースを奪ってくる。

パパ活女子が高級鮨屋で大将を怒らせたとか、自分の人生に0.0000000000001nmも関係ない話に対して思考し、時間を使い、意思を使い、自身の物語から目を背ける人間が数万人以上産まれている事実が憎い。あまりに悪だ。社会のガンだ。

 

 

今日の目標(最低目標を併記)

  • Yes Noチャートを作成し、生活のトラブルシューティングを明文化する。
    • Yes No チャートを1ページでも作り始める。
    • 印刷のためにUSBに移し、コンビニへ向かう。
  • 明日の日報を事前に作成する。
    • 日報を作って定型文を貼り付ける。
  • 期末課題を1つ片付ける。
    • LMSを開く。

目標確認

全部成功しました。

記(2)

誰かが誰かと遊んでいる写真を見ると、孤独に苛まれる。誰かが資本主義の中で成功していると、頭痛になるくらいの後悔が訪れる。

結局誰かが何かをしているのを見るというのは基本的にストレスにしかならない。孤独を受け入れ、自らと対話することと、社会ないしは好きな人間との接続を保ち続けることの両立は意識的に取り組むべきである。特に好きな人間に接続しようとして劣悪な情報に接続してしまう現代のような状況では。

 

さて将来結婚するなら、素敵な言葉を書く人がいい。素敵というのは、なんら飾り気のない様子で、それでいて文の奥から溢れる感情に共感したり、反抗したりさせられることを指す。「話す」というのは必ずそこに相手がいるから、素直になりきれない。どうしても仮面をかぶるので。それはそれでいいんだけど。だから文だし言葉だよなと思う。

 

 

フローチャートにした

朝(布団付近に掲示)

昼寝時(机付近に掲示)

ダラダラ時(ベッド付近に掲示)



今日の音

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